日本語は英語を理解するときの最大の武器である

大学生たちは“ I go to school. ” を必ず「私は学校へ行きます( 行く)」と訳します。大学生だ
けではありませんよ。ある学生が調べたところでは、中高の英語教師7 人中6 人が同じに訳したそうです。

これ、何が問題なのか?

「ことば」の問題です。

会話の場合、その日本語はどういうときに使いますか?
小さな子がだれかに「来年から学校? 」とでも聞かれたら、「うん、学校へ行くの」とは言いますね。高校生あたりが「あした、学校をサボって、どっか行こう」と誘われたとき、「いや、
学校へ行く」と答えることもあるでしょう。

いずれにしても、その「行く」は未来の話です。もとの英語は、未来を語ってはいません。‘ g o ’ は現在形です。現在のことについて言っていますよ、と‘ g o ’ が語っているのです

現在のこととして「学校へ行きます」と言うことは、ないこともないですよね。「土日以外は毎日どうしている? 」と聞かれて、そう答える場合あたりですかね。こういう場面を大学生たちは思い浮かべたのでしょうか?

ちがうでしょ。

第一に、もしそうなら、「学校に通っています( 行っています)」と訳す人が何人もいたはずです。その言い方のほうが、「現在」の意味として自然ですし、上の場面の「どうしている? 」
の言い方にも合っていますからね。さっきの英語教師の残り一人は、そう訳したそうです。

第二に、「中学生レベルの問題ではないか」とばかりに、判で押すかのようなあっさりとした反応だからです。未来の「学校へ行きます」とはちがうのだ、という自覚が見えません。

“ I go to school. ” = 「私は学校へ行きます」と答える彼らは、英語を考えるときに「ことば」を忘れてしまうのです。

ことばは、何かの場面で自分の意思を伝えるための道具ですね。ことばの意味というのは、場面と意思を離れてはありえないのです。

それがわかっていれば、「学校へ行きます」という日本語は、日本人ならどういう意味で( どんな場面でどんな意思を込めて)使うのか、ということに目が向くはずです。そして、もとの英語は、その日本語と同じ意味で使われているのか、と思ったはずです。

日本語も英語も、同じ人間の使うことばです。日本語がわかるなら、英語を使う人の頭もわかります。ことばを使おうとする人間の頭のしくみは同じなのです。

もっているものをなぜ使わない?

何かが新しくわかるというのは、すでに知っていることとのちがいがわかる、ということではないか。よく知っている日本語は、英語のしくみを理解するときの最大の武器ではないか。

むかし、だれでも「カナリア」( 作詞: 西条八十) という童謡を知っていました。

「唄を忘れたカナリアは、捨ててしまおう、ムチで打とう。いえいえ、それはなりません」と謳ったあとの最後のくだりに、こうあります。
「唄を忘れたカナリアは、月夜の海に浮かべれば、忘れた唄をおもいだす」

日本語は、英語を学ぶときの「月夜の海」です。人間の情愛を謳った西条八十には申しわけありませんが、転用すれば、そういうことです。

日本語という「月夜の海」に頭を浮かべていれば、「ことば」を忘れません。

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